「信じることで自由になれる」   07.01.14
                     使徒言行録21:17〜36

 自分の罪が赦され、滅びから救い出されるために、神のみ子で
あるイエスさまがその身分を捨てて人となり、十字架にかかって
死んでくださった。そんなイエスさまのことを、心に刻みつけている
パウロは、他の人の救いのためには自分を犠牲にしてもよいと
思っています。自分が損をしても良い。自分の思いや願いを主張
しなくてもよいと考えます(Tコリント 9:19〜23、10:32〜11:1など)。
 仕えて下さるイエスさまの姿を見つめる時に、自己中己の心から
自由にされます。人を生かすために自由に仕える心を与えられます。
 私たちも、そうありたいのです。
 この場面には、そのようなパウロの姿勢から出る行動が
描かれています。エルサレムの人々の中にパウロに対する非難が
ありました。 それは、誤解によるものでしたが、エルサレム教会の
指導者も治め切れないほどでありました。そこで、教会の指導者が
提案をします。
 それは、パウロが律法に従った行為をして、非難をされるような
者ではないことを明らかにするというものでした。この提案の
内容は、危険が伴うものでした。パウロを裏切り者として見なして
いるユダヤ人がたくさんいるエルサレムに1週間滞在し、しかも
神殿に何度も行かなくてはなりません。
 実際、その提案を受け入れたパウロは捕らえられ死にそうな目に
あわされます。そもそも、誤解している人たちが悪いのであって、
パウロがそのために何かをする必要はありません。
 しかし、彼は、その提案を受け入れます。どうしてでしょうか。
 誤解をしている人の信仰がぐらつかないためにです。
 その人たちの信仰を支えるためであれば、喜んで、どんなことでも
しようと思っていたからです。
 だからこそ、危険で、本当ならば必要のないことであっても、
パウロはその提案を受け入れるのです。

 
教会では、相手の信仰を支えるための、愛ある配慮がなされて
きました。愛の配慮に気づいた人は、次に自分が心を配ります。
 そうして心を配りあう、愛の満ちた教会でありたいと願います。